昭和35年9月ころ、当時中部電力岐阜支店で発変電課の主任を務めていた松田稔(元会長・社長)は、中部電力の工事量と、これを施工する直営/請負付託量のバランスを検討し、将来の日本経済の成長率の動向と電力業界の設備投資の増大の予想から、必然的に直営工事の請負への移行および請負付託の大幅な増大を確信し、電気工事請負業の創立を決意した。
昭和18年日本発送電に入社し、水力発電所の建設に多く従事して工事業に携わる自信を持っていた松田は以上の構想実現にあたり、同課所属の山本三逸に相談を持ちかけた。
山本は、「構想、決意はまことに尊敬するが、生涯を賭ける大事業であり、中電のような大企業を中途で退職しての決意と、貴殿の性格からして良い女房役が必要であるので適当な人材を選び決行するべきである」と進言した。
これに従って2,3の人に声をかけたが不調に終わり、白羽の矢を山本に向け交渉した。山本は松田の強い要請に折れ快諾するに至った。時に松田38歳、山本46歳であった。
(りゅうでん株式会社 35年史より)
昭和35年9月ころ、当時中部電力岐阜支店で発変電課の主任を務めていた松田稔(元会長・社長)は、中部電力の工事量と、これを施工する直営/請負付託量のバランスを検討し、将来の日本経済の成長率の動向と電力業界の設備投資の増大の予想から、必然的に直営工事の請負への移行および請負付託の大幅な増大を確信し、電気工事請負業の創立を決意した。
昭和18年日本発送電に入社し、水力発電所の建設に多く従事して工事業に携わる自信を持っていた松田は以上の構想実現にあたり、同課所属の山本三逸に相談を持ちかけた。
山本は、「構想、決意はまことに尊敬するが、生涯を賭ける大事業であり、中電のような大企業を中途で退職しての決意と、貴殿の性格からして良い女房役が必要であるので適当な人材を選び決行するべきである」と進言した。
これに従って2,3の人に声をかけたが不調に終わり、白羽の矢を山本に向け交渉した。山本は松田の強い要請に折れ快諾するに至った。時に松田38歳、山本46歳であった。
(りゅうでん株式会社 35年史より)